今、「最後のパレード」という本が、かなり書店などで宣伝されていたので、読んでみました。
東京ディズニーランドで、実際にあったとされる(?)33篇の物語が書かれていて、書店のポップにも、「この本を読んだ97%の人が泣いた」と大々的に宣伝していた。
しかし、実際に手にとって読んでみると、確かにディズニーランド内で起きた心暖まる物語の数々・・・
でもね、実際自分が、もう20年前になってしまったけど、当時、現場で働いていて分かっていることだけど、本に書かれていることは、当り前のように行っていることで、また、本に書かれている以上に、特別なお客様だけへのケアではなく、すべてのお客様に対して同じ気持ちで接している従業員が、うがった目で見られてしまう危険性を感じました。
また、「感動」というものは、こちら側から「感動してね」「感動させたい」と言ってするものではなく、受ける人、それぞれの気持ちによるものなので、「97%の人が泣いた」というキャッチに違和感を感じていたのですが、やっぱりそうでした。
以前、セミナー演出などを行っているサードステージの森さんという方と打ち合わせをしている時に、こう言うお話をしたことを思い出しました。
私:「森さん、演出で参加者の皆さんを感動をさせたいのですが、何かいい案はありますか?」
森さん:「菅谷さん、感動というものはさせるものではなく、その時の状況、気持ち、想いが重なった時に、自然に感じるもので、こちらから感動させたいと思って、感動させられるものではないんですよ。」
確かにそのとおりです。
私がディズニーランドで働いていた時は、感動させようと一生懸命やっていたわけではなく、せっかくの時間を割いて、楽しみに訪れた人が、安全に、そして満足してお帰りいただくことを一番に仕事をしていたので、この本に書かれていることは、ごく当り前の行為の延長上に、たまたまあった偶然のお話なだけであって、感動させるためにやっていると変に取られてしまう危険性を感じたのでした。
今は、多くの人の心が疲れているのか、「泣きたい」「感動したい」ブーム。
でも、意図的に、作為的にそうしようとすると、どこかで無理が生じる。
映画でも「感動作」というのは、必ずと言っていいほど、主人公が不治の病、突然の病などで亡くなる。
そういうシチュエーションで製作しなければ、感動させられないのか、と思うと、「儲けのため」という、何か恣意的なものを感じてしまう。
本当の意味で人の心を震わせるのは、本の題材、映画の題材になることを目的とするのではなく、本当にその人のことを想って、全力で愛せるか、ためになることができるかだと思う。
はっきり言って、この本に載ってはいないけれども、もっとゲストのために一生懸命働いている立派なキャストは、たくさんいました。今もそうでしょう。
そうした彼らは、不治の病のゲストを対応したわけでも、特別な事情があるゲストでもなく、ごく普通にパークに訪れたゲストのために、がんばっていました。
もちろん、そんなことは、本などには紹介されないお話ですが・・・
いつもありがとうございます。
みんなハッピー♪